意外にペンギンがいる。ワールドカップ。
アパルトヘイト。
南アフリカに関する知識なんて、誰しもこんなものだろう。よほど興味がなけりゃ海外旅行先にも選ばれないだろうし、そもそもどんな人々がどんな生活をしているか、ちょっと想像できない。(どの国もそうであるように)もちろん南アにも現在進行形の深刻な社会問題は転がっているのだろうが、俺たちは世界史の教科書と、テレビのナショナルジオグラフィック的映像でしかこの国のことを知らない。そこにどんな過酷な歴史があろうと、悲惨な現在があろうと、興味も持たない。
当たり前だ。面白くないもの。
だから南アフリカの現状をみんなで考えるために、そこに宇宙人とPMC(民間軍事企業)と変な形の銃と納豆ミサイルをぶち込んだSFエンターテイメント映画が、この『第9地区』だ。
南アフリカに突然、大型の宇宙船が飛来、ヨハネスブルク上空で停止。中には無数の甲殻類のような異星人。宇宙船の機能が停止し、母星に帰還できなくなった異性人たちは、地上に降りて生活を始める。仕方なく南ア政府は、スラムの一角を異性人の居住区として解放、しかし人種間の差別すら解決できない人間に、異種族との共生は難しすぎる課題だった。指導者を失った異星人(その姿から人間には「エビ」との別称で呼ばれる)に広がる貧困と絶望、もはや「地区」の社会性は機能不能の状況であり、ただでさえ彼らの到来を快く思わない人間は、その姿に恐怖し、嫌悪し、アウトローは彼らを利用する。つまり大なり小なりどの地域にも存在するスラム問題の、その最大規模の象徴が「人種差別の聖地」南アフリカに現れたのだ。
というのがこの物語の前提となる設定。正直大好物です。
この設定が、冒頭から今流行の「フェイク・ドキュメンタリー」調に描写される。フェイクドキュの手法自体は個人的にあまり好きでないものの、一目で解るリアリティー重視の演出である。この「リアリティー」のバランス感覚こそ、この映画をどう評価するかの最大の争点だろう。これに関しては後で述べるが、この『第9地区』は「エンターテイメントSFにおけるリアリズム」ということを考える上で、非常にいい参考資料になる作品だと思うのだ。
主人公は極限までスラム化した「地区」の住民に対し、移住を勧める役人である。平和ボケした事なかれ主義と、自己認識のない通常サイズのレイシズム(差別意識)を身につけた非常に「人間らしい」、まさに小市民である彼の生活は、「地区」でのちょっとした事件によって終わりを告げる。ひとりの「エビ」が隠し持っていた謎のカプセルから飛び出した液体を浴びた彼の肉体は、徐々に「エビ」のそれに変化していく。異星人のテクノロジーを解析し、軍事利用するため「地区」を管理する超国家機関(なんという響き!)は彼を実験材料として監禁するも、彼は身の危険を感じ脱出。しかし人間社会に戻れない彼には、他のアウトローと同じく、行き先は「地区」しかなかった。彼は最後の希望として、カプセルを持っていた「エビ」を訪ねる。その「エビ」こそ、宇宙船を再稼動させる研究を行っていた、唯一の研究者階級の異星人だった、、、
俺はこの映画を傑作だと思う。設定も表現も、本当に素晴らしいと思う。
しかしこの映画が、じゃあ誰でも楽しめるエンターテイメントか、というとそうではないとも思う。
この映画が傑作なのは、これがオタクによるオタクのための映画だからだ。
そして、俺がオタクだからだ。
まず、監督・脚本のニール・ブロムカンプは間違いなくオタクである。そもそも『スターゲイト』『ダークエンジェル』などのSFドラマに携わってきたし、あの「ザ・FPS」『HALO』の映画化の話がそもそも今作に携わるきっかけになったと言うのだから、そちらにももちろん詳しいのだろう。カメラに付着する血飛沫、登場するSFガジェットの数々、特に終盤に大暴れするパワードスーツに、「わかっているなあもう」と思わずうんうんと頷いてしまう。パワードスーツが放つ「納豆ミサイル」(日本のアニメ「マクロス」や「イデオン」で板野一郎が演出した、複雑な軌道を描いて飛ぶ無数のミサイルのこと。特徴的な戦闘機の挙動などとも合わせて、「板野サーカス」と呼ばれる。アニメに関わらず、フォロワーが続出した)の向こう側に、監督の満足そうな笑みが俺には見えた。
さらに、映画版『HALO』に彼を紹介したのが、当代随一のオタク監督ピーター・ジャクソン。その圧倒的な作りこみで小煩い原作オタクを黙らせた『ロード・オブ・ザ・リング』と最強の恋愛映画『キング・コング』で全世界のオタクの心を鷲掴みにした彼が製作に着いているのだから、オタク的には最強の布陣である。
ところで、俺はオタクとは「こだわること」だと思っている。
常人が気にしないことに「こだわり」、時に社会性すら担保にその「こだわり」を突き詰める。神はディテールに宿る、というがまわりの人間にはあまりに変形しすぎていてその神は見つからない。
だから、基本的にオタクの作品は、歪である。あるポイントにおいては病的なほど作りこまれているが、作者のこだわりの外の部分は雑だったりする。しかし、似たような趣向と性質を持つ鑑賞者からすると、それはとてつもなく完璧な作品に見えたりするのだ。
そして映画監督には、とくにジャンル映画やカルト映画の監督には、オタクがスゲー多い。彼らの作品は、基本的に乱暴であり、雑であるのに、ある面では病的なまでに繊細だったりする。その歪さが、美しさすら兼ね備える瞬間があって、だから俺はそんな映画が大好きなのだ。
そんなオタク監督の中で、なぜピーター・ジャクソンがキングかと言うと、彼はその「こだわり」の対象が、「物語を描写する」という、言ってみれば映画を作るという行為自体に向いているからだと思うのだ。彼はその「こだわり」に従って、彼の映画のビジュアル面を担当するスタジオ、ウェタ・ワークショップとともに、トールキンの書くそのままにホビット庄を再現し、スカルアイランドで過剰とも言える数のクリーチャーを登場させ、死後の世界を創造し、結果3時間超えが当たり前の超大作ばかりの売れっ子監督となった。彼の「こだわり」はもはや細部にだけ向いているのではない。「映画」という創作活動の中心となる、物語を映像で描写し、イマジネーションを具現化するという行為自体に完璧さを求める監督がピーター・ジャクソンなのだ(ちなみに、スピルバーグも似たようなタイプである)。
話を戻そう。
で、『第9地区』の話だ。
ブロムカンプ監督はウェタ・ワークショップの協力の下、現実の南アフリカと、彼のイマジネーションを、リアリティをもったまま融合させた。この「リアリティ」こそ、ブロムカンプの「こだわり」の方向性だったんじゃないだろうか。
「リアリティ」は、「リアル」とは違う。
「リアリティ」は、物語が現実に殉じることではない。
「リアリティ」は、虚構が観客に現実のこと「のように」受け入れられようと、もがく努力によって生まれる。
突拍子もない、現実味のないことを、ようするに「嘘」を、観客が嘘っぱちであることを知った上で、それでも現実のことのように感じてしまう現象を作り出すこと。その熱意が「リアリズム」であり、俺は物語の魅力と言うのはこの虚構と現実の格闘にあると思っている。
『第9地区』のリアリティは、もちろんウェタの素晴らしいCG技術に拠った部分も大きい。例えば、夕焼けに包まれたヨハネスブルクの空の風景に、自然に巨大なマザーシップが同居している、そんな作品内の日常ショットのSF的美しさ。「エビ」たちの、人間とは確実にかけ離れているが、どこか知性を感じるような表情。そういったテクノロジーによるリアリティは、この映画の見所のひとつだ。しかしそれだけでなく、ブロムカンプの「なんとかしてこの作品を現実と引き合わせよう」という熱量が、この映画には確実に存在する。「エビ」たちが住む住居、あれは実際のスラムの人々のものをそのまま使用している。人によっては過剰に感じるかもしれない暴力的な表現も、登場人物の「痛み」を伝えるのに必要だ。また、有名俳優を使わず、ほぼ素人に、しかもアドリブで演技させ、ナマの感情を画面に写し取る演出。エンターテイメントに切実な問題意識を写し取ろうとする健気な努力。これはSFにもかかわらず、いやSFゆえに現実との距離感と格闘し、なんとか物語を荒唐無稽にしないような「こだわり」に溢れた映画なのだ。その努力は必ずしも万人に伝わるようには表出されていないかもしれない。この一見しただけではわからない表現ではあるが、しかし、端々に感じられる「リアリティへのこだわり」は、この映画に通り一遍等のSF映画にはない「説得力」を持たせているのだ。
と、真面目に語ってしまったが、この映画の最大のよさである「リアリティへのオタク的こだわり」は、欠点でもある。オタク的こだわりを汲み取って感動できるのは、オタクだけなのだ。つまりそもそもオタク映画が好きじゃない人にとっては、この映画のリアリティは伝わらないのである。物語においてリアリティというのは重要な要素だ。とくにSFにおいては、そもそもが「リアル」でないのだから、ありとあらゆる手を講じないと一般の観客には振り向いてもらえない。『第9地区』におけるリアリティ表現はそのオタク的な性格ゆえに、もっともその辺を気にする人々に伝わらないという悲しい構造を持っているのだ。さらに、ブロムカンプのオタク気質は極めて健康的で、自分がリアリティにこだわったシーン以外では、多分そのサービス精神、「ちょっとこういうSF的描写が苦手な人には退屈かもな、だから戦闘シーンマシマシで!みんなもこういうの好きでしょ!」と、基本的にミリタリー・SFアクション映画(すごくバカな響きでしょ?)として物語を進めていく。このあたりの発想もオタク的でだから凄く俺はシンパシーを覚えるのだけど、世の中には結構「この手の」映画に興味のない人がいて、そういう人にはこのサービス精神まで裏目に出る。だから、そもそもこの作品に流れるオタク魂(スピリット)を拾えるような人間以外にはちょっと設定が面白そうなフツーの「ミリタリー・SFアクション超大作」にしか見えないのだ。可愛そうなブロムカンプ。気持ちはわかるぜ。
つまり、『第9地区』はSF的には傑作でありながら、「こういう」映画が好きな人には美しいSF的リアリティと板野サーカスを同時に楽しめる超贅沢な一本で、そうでもない人には何の変哲もないSFアクションにしか見えないという、そういう作品なんだと思うのです。
ま、俺は大好きだけどね。